7月7日、日吉キャンパスにて「日本の平和主義のこれから 〜憲法第9条と平和の行方〜」というテーマのもと、フリージャーナリストとしてご活躍されている伊藤千尋氏をお招きし、勉強会を行いました。世界各地を取材して来られた伊藤氏のご講演をお聞きし、「平和とは何か」について深慮する機会となりました。
東大法学部卒。大学時代にキューバで砂糖キビ刈り国際ボランティアに参加。大学4年次に新聞社から内定を得たが、東大「ジプシー」調査探検隊長として東欧の現地調査に赴く。1974年に朝日新聞入社。東京本社外報部、サンパウロ支局長、バルセロナ支局長、ロサンゼルス支局長などを歴任。朝日新聞の週末別冊版「be」の編集部を最後に、2014年に退職。現在はフリージャーナリスト。
異なる文化や考え方を持つ人と人が接するとき、相手を尊重する姿勢が重要となる。なぜなら、そのような姿勢がなければ、有意義なコミュニケーションを望めないからである。お互いに相手を尊重し合い心を開けば、互いに学び合うことができる。このような姿勢は、人と人が接するときだけでなく、国と国が接する際においても重要となる。
今から200年ほど前に、ドイツの哲学者カントは、国家を人間に例え、国際平和の実現を説いた。著書『永遠平和のために』
において、カントは「人間の自然状態は戦争状態であるから、平和状態は創設されなければならない」と説いている。つまり、カントによれば、平和は人間が自ら創りだすべきものなのである。さらに、カントは、国家間の永遠平和のための諸条件を挙げている。カントによれば、世界平和は、国家体制として共和制を採用する国々が国家連合を組織し、国際法と世界市民法を守ることにより実現される。このような諸条件の中には、歴史上達成されたものもある。例えば、「国家が共和制を採用すること」はフランス革命において実現された。また、「国家連合を組織すること」は、国際連盟や国際連合の実現により達成された。そして、「常備軍を廃止すること」を初めて実現したのは、他ならぬ日本国憲法である。しかし、憲法第9条は、安倍政権下で改正に向けた準備が進められている。この動きが、今後日本の世界との関わり方に影響を及ぼす可能性もある。
平和の実現と維持を研究する平和学という学問がある。その第一人者であるヨハン・ガルトゥング氏は、争いのない状態を指す「消極的平和」に対し、構造的な争いの火種がない状態を指す「積極的平和」という概念を提唱した。この「積極的平和(Positive Peace)」という概念は、安倍総理の唱える「積極的平和主義(Proactive Contribution to Peace)」とは全く異なる概念である。安倍総理は、この概念を「関係国と連携しながら、地域及び国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に寄与していく」という意味で使用している。確かに、平和は創りだすものであるという意味で、平和の実現にはproactive(自発的)な態度は必要である。しかし、proactiveは軍事用語では「先制攻撃」のニュアンスで使用されることもある。そのような言葉が宛がわれる積極的平和主義に、この国の方針を託すことには疑問が残る。いずれにせよ、国家間の平和において大切なことは、相手を尊重する態度と対話により、争いとその火種を積極的に減少させていくことである。
1970年、南米チリで社会主義政党が政権を獲得した。しかし、社会主義政権の行う政策に富裕層や軍部が反発し、反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。1973年には、遂にピノチェト率いる軍部が軍事クーデターを起こした。南米の社会主義化を懸念するアメリカがクーデターを支援し、ピノチェト独裁政権を誕生させたのである。この軍事政権のもとでは、多くの市民が犠牲になった。また、1976年には、同じ南米のアルゼンチンでクーデターが起こった。このクーデターにおいても民間人の弾圧が行われ、数万人の命が奪われた。軍隊は、国民を国外勢力から守るだけの組織ではなく、時に国民を弾圧することもある。
2001年、アメリカで同時多発テロが起きた。このテロを境に、アメリカの人々はテロの恐怖に怯えると同時に、愛国心に燃えた。テロへの報復として戦争を行うという流れが正当化されたのである。その結果、アフガニスタンやイラクで戦争が行われた。テロの本当の脅威は、人々に恐怖を植え付け、人々の目を曇らせることかもしれない。
ユーゴスラビア紛争は、旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で起きた異民族間の対立による内戦である。旧ユーゴスラビア連邦で紛争が開始された当初、現地の人々はこの紛争はすぐに終結すると思っていた。なぜなら、紛争が起こる以前は、クロアチア人もセルビア人も友好的に暮らしてきたからである。しかし、政府が戦争を焚き付けたため、戦争が長期化し悲惨な結果を生んだ。人々が戦争を行う理由がないと考えていても、戦争はいとも簡単に起きてしまう。そして、戦争は一度始めてしまうと、終結させることは容易ではない。したがって、戦争を開始しないことが平和への絶対条件であると言える。
コスタリカは、日本に次いで世界で2番目に常備軍の廃止を定める平和憲法を制定した国である。平和憲法が制定された理由として、かつての内戦への反省と軍事費による財政圧迫の解消が挙げられる。コスタリカは自国だけではなく、周辺諸国、さらには世界の平和に貢献してきた。例えば、近隣諸国の戦争を停戦に結び付けたり、平和のための声明を出すなど、積極的な取り組みを続けてきた。このような実績こそが、軍隊を持たないこの国を守っている。何故ならば、国際平和に貢献し続けてきたコスタリカに攻撃を仕掛ければ、国際社会が放っておかないからである。このように、コスタリカは軍隊を廃止しながらも、他国の軍事的脅威から解放されている。さらに、軍事費を削減し教育費に回すことで、豊かな教育国家を実現している。このことは、多くのコスタリカ国民にとって誇るべき事実となっている。
日本は、このようなコスタリカの姿勢から学ぶべきことがある。それは、平和憲法を理念として掲げるだけでなく、実践に移すということである。日本国憲法は確かに平和主義を掲げる憲法であると言えるが、日本がそれを実践に移しているかに関しては疑問が残る。実際、多くの日本人は、自国が平和主義を実践に移しているかについて、コスタリカ国民ほど自信と誇りを持って語ることができないだろう。
憲法第9条は、世界に誇れる平和主義の象徴である。しかし、この平和主義の理念は掲げられているだけで、十分に実践されてきたとは言えない。それにもかかわらず、安部政権下において憲法第9条を含めた改憲に向けた準備が進められている。彼らは「日本国憲法は、GHQに押し付けられた憲法であり、現状に合わない」と主張する。しかし、そのような主張をする前に、日本国憲法の意義と価値を慎重に考え直すことが必要である。コスタリカのように、軍事力に依らない平和の実現も不可能ではない。また、安直に日本国憲法を「GHQに押し付けられた」と言うべきではない。なぜなら、憲法第9条の原案は、終戦直後に首相を務めた幣原喜重郎が提案したとも言われているからである。また、「押し付け」という言葉は望まないものを無理強いされたと考える人が使用する言葉であり、歴史的事実として日本がGHQから日本国憲法を「押し付けられた」過去があるとは言えないのではないだろうか。
日本は平和主義の実践として、「平和の輸出」を目指すべきである。グローバル化が進む現代において、日本一国だけ、あるいは日米二ヵ国だけで平和を実現することはできない。したがって、平和主義を掲げ、平和を世界に広めていく必要がある。日本はコスタリカのように、国際社会から「あの平和国家を潰してはならない」と言われるような平和外交を目指すべきである。
講演の最後に、伊藤氏から日本のこれからを背負う私たち学生へ向けて、メッセージが贈られました。
『私は、一度新聞社への入社を辞退したことがある。ジプシー(ヨーロッパを中心に、南・北アメリカなど世界各地で生活する少数民族)の暮らしを調べる旅に出たいと思ったからである。あのとき、私はキャリアの形成よりもロマンを選んだ。自分が憧れることや好きなことでなければ、楽しくないだろう。大学生はとにかく自分の好きなことをするとよい。それから、社会人になり、時間に融通が利かなくなる前に、世界を旅して見聞を広めておくのもよいだろう。
最近、ある企業で仕事に追い詰められて若い社員が自殺したというニュースがあった。今の若者は「人生はこうあるべきだ」という固定観念に強くとらわれているのではないだろうか。だが、世界には色々な生き方があることを知ってほしい。日本ではやたらと「お疲れさま」と言う。今の日本は疲れがたまりやすい社会になってしまったのかもしれない。コスタリカには“Pura Vida”という挨拶がある。直訳すれば「純粋な人生」となる。いい挨拶ではないか。これを聞くだけで少し幸せになれる。豊かな社会とは、経済力のある社会のことではなく、人々が満足して暮らしていると思える社会のことであると思う。こういう社会が存在することを知ってほしい。』
Q.1 なぜ、就職を辞退し旅に出るという選択ができたのでしょうか。
A.1 それは、若さとロマンを求める心があったからです。若いときは体力があり、失敗してもやり直すことができる。だから、企業に就職して安定した人生を送ろうと考えるのはもったいない。それより、私はロマンを追いかけたいと思ったのです。
Q.2 世界各地を旅して、大きく価値観が変化した体験は何ですか。
A.2 私の価値観は、常に変化し続けていました。特に、コスタリカの平和主義の在り方には驚きました。平和憲法を掲げるだけの日本とは異なり、コスタリカは平和憲法を実践に移しているからです。また、日本社会の特殊性にも気付かされました。日本人は、集団を重んじ、人に迷惑をかけないようにします。しかし、そのような考え方は世界の主流ではありません。世界には様々な考え方があることを思い知りました。
伊藤氏の世界各地での取材のお話はどれも印象的でした。また、憲法第9条をめぐり、国内では様々な議論が交わされています。どのような立場に立つとしても、まずは国際社会における憲法第9条の存在意義を見つめ直すことが必要なのではないかと思いました。
今回ご講演くださいました伊藤千尋様、本当にありがとうございました。
文責 井上 諒